【この物語の個人名、団体名等は仮名ですが、後は、ほぼ事実です。】
車は柳田高校の横の狭い通路を入っていった。角を右に直角に曲がると、ハードコートが見えた。そのコートには、多くの部員がカラフルなウエアを身にまとって練習に励んでいた。
新入生らしい、部員が
「頑張っていきましょーうぉ!」
と、元気なかけ声をかけていた。
母親の直子は、車をコートのすぐ横にある部室の前に(旧寮横)車を止めた。そして、コートに立っていた木田監督を見つけると、小走りにかけていった。
「お世話になります。藤田大地です。今日からお世話になります。」
「あー、そうですね。よくいらっしゃいました。今から、係の者に案内させます。寮まで車で入ってください。」
その指示に従い、直子はコートから40メートルくらいの距離にある寮の玄関付近に車を進めた。
寮の前に、上級生らしい男子が待っていた。その男子は、左足が悪いらしく、右足一本で立って待っていた。
直子が、
「よろしくお願いします。」
と、その男子にあいさつをした。
「こちらこそ。よろしくお願いします。3年生の桜木です。」
と、笑顔で返してきた。
桜木は、段ボール箱に入った大地の荷物を持つと、右足一本でケンケンして廊下を進んだ。そして、階段を片足一本でピョンピョンと上り始めた。その驚異的な脚力を見て、直子と大地は目を合わせた。二人は、この柳田高校のテニス部員の体力の強靭さを目の当たりにした気がした。
靴を脱いで寮内にはいると、異様な雰囲気に気が付いた。中の空気がどんよりしている。
直子は持参したスリッパをはいて歩き出した。裸足で歩いた大地は、足の裏がベタベタしていることが気になった。
湿気のせいか、それともタイル汚れのせいなのかわからないが、とにかく床がじめじめしている。さらに、廊下の隅には、テニスシューズの残骸や、雑誌の束、破れたTシャツが丸めてある。
その薄汚れた様子から何年も掃除が施されていないことがわかる。寮の奥は闇のようだ。おどろおどろしいくらい暗い感じがする。何か得体の知れないものでも棲んでいるような雰囲気を直子と大地は感じ取った。
目的の部屋に着いた。部屋は、4人部屋(足の踏み場もない)なのだが、4畳半程度しかない。2段ベッドが2つ、そして机が4つあった。そして、さらに厚みの薄いロッカーが居住空間を奪っていた。
桜木の話によると下級生のテリトリーは2段ベッドの上と、薄いロッカーの前だけだそうだ。桜木も1年生のころは、同室の上級生の顔色をうかがいながら息をひそめて生活していたという。
次に風呂に案内された。そこは、風呂というよりも、ごみ置き場のような汚さに覆われた足洗い場のような場所だった。すぐ側に、洗濯場がある。寮には、テニス部員と野球部員の総勢80人が寝泊まりしているのだが、洗濯機は4台しかない。驚いたのは、その洗濯機の中にまだ洗濯物が入ったままになっていることだ。
この状況を見た大地は洗濯機を使うことがきるのか心配になった。そして、洗濯物を部屋干しできるのは上級生で、1年生は外の干場というルールがあることを知った。
直子が外の物干し場を見ると、下級生が干したと思われる洗濯物があった。しかし、取り入れを忘れた洗濯物が、地面に山になって落ちており、まるでごみの塊のように見える。
次に、下駄箱に案内された。下駄箱は個人の名前が上部に記されており、置く場所が決まっている。それでも、限界まで乱雑に靴が入っていた。その上部には、個人名が書いた木の板があり、外出するときはひっくり返すシステムになっている。
玄関付近には電話が2台あった。昔の俗にいうピンク電話だ。10円を入れてかけるものだ。100円は使うことができない。(大地が2年生になって携帯電話が持てるようになるまで、会うたびに10円玉を多数渡し続けることになる。)
桜木は、寮内の案内が終わると、寮の外を案内してくれた。
「よく行くところに案内しましょう。」
と、言って、かかりつけの病院巡りをした。
1軒目は、整形外科だった。
「ここが一番部員がよく行くところです。」
と、得意げに桜木が紹介する。
2件目は、普通の町医者の内科だった。
「かぜや腹痛はここに行きます。」
その後は、トレーニングとしてランニングする往復14キロメートルの海岸沿いを案内してくれた。
「1年生は必ず走らされるから覚えておいてね。」
と念押しされた。
最後にレンタルビデオに案内された。
「上級生から『レンタルしてきて。』と頼まれるから場所を覚えておいてね。」
そして、
「徒歩で来るようになるよ。1年生は自転車禁止だから、基本、歩くか、走るかだからね。」
案内された場所と説明を聞いて、大地は青ざめていた。
車は30分位、寮の周辺を走った後、寮に戻った。そして、直子は大地と桜木の二人を車から降ろした。
「じゅあ、お母さん帰るからね。桜木さん、大地をお願いします。」
「おばさん。大丈夫ですよ。僕がついているから安心してください。」
と、桜木は言った。
直子は、その言葉と桜木の人柄を感じとり、安心して岐路に着いた。
3日後に直子は再び柳田に向かった。柳田高校の入学式とテニスの入部式に出席するためだ。朝5時に起床し、暗闇の中を西へ車を走らせた。朝の高速道路には車が少なく、普段なら4時間半くらいかかる道のりが、3時間弱で到着することができた。
大地とは柳田高校の玄関で待ち合わせていた。待ち合わせ時間にその場所に行くと、大地が学生服を着て立っていた。3日かしか過ぎていないのにその風貌が激変していることに直子は驚いた。
体の大きさが二回りも小さくなっていたからだ。そして、顔色も赤みが失われ、灰色に近い。その廃人のような姿に目を疑った。
「どーしたの?大地。」
と声をかけると、
「うん。しんど過ぎて。もう無理かも。」
と、力なく答えた。
「そうなの。」
「うん。」
あまり会話が成立しないので、直子は入学式に出るために体育館へ速足で移動した。
入学式が終わり、直子はテニスコートへ行った。
テニス部の入部式が始まった。4月上旬というのに異常に寒い。風も容赦なく吹き付けてくる。その中で入部式は行われた。テニス関係者が数名と、2・3年生の男子と女子部員総勢50名がテニスコートに集っている。
部長、副部長の話が終わり、いよいよ新入部員が抱負を述べることになった。
11名の新入部員が次々に元気よく自分の決意を述べていった。
大地は、自分の番になると、
「どこまで、できるのか試しにきました。」
と、ボソリと言った。
やはり、覇気がない。
入部式が終わり、帰る時間になった。
直子は監督にあいさつをし、車に乗り込もうとした、そのとき大地がフラーっとやってきた。そして、車のボディーを触りながら、
「うわー。お父さんの車だ。懐かしいー。」
「これに乗って帰りたいなー。お母さん、乗せて帰って、お願い、お願いだから!」
それを聞いた直子は、
「ダメよ。自分で選んだ道なんだから頑張りなさい!」
そして、さっさと車に乗り込み、
「早くコートに行って、練習しなさい。もう帰るところはないよ!」
と、言い唇をかみしめた。そして、『このままここに長居をすれば、大地の甘えの気持ちを助長させてしまう。』と、とっさに思った。
素早くエンジンをかけ、車をスタートさせた。ふと、バックミラーを見るとスリッパを脱ぎ捨てた大地が裸足で走って追いかけて来る。
できることなら、止まって載せてやりたいと思った。しかし、それはできない。
母親として葛藤しながら直子はアクセルを緩める気持ちと闘っていた。
大地の姿が、小さく見えなくなるととともに視界が不鮮明になっていく。
ETCゲートを通りすぎ、高速道路に上がった瞬間、声をあげて泣いた。
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