錦織より強い?世界ランキング3位の日本人選手『佐藤次郎』の生きざま!

佐藤次郎画像

佐藤次郎とは

錦織圭選手の最高のランキングは、現在4位だ。(2019.2.23現在)

80年前に、日本人選手として世界ランキング3位になった選手がいた。

その名は、“佐藤次郎”またの名を“ブルドック佐藤”という。佐藤は、日本テニス界を牽引し、黄金時代を築きつつあった選手だ。テニスの神様“フレッド・ペリー”にも勝利したことがある。

佐藤は、ある意味、今のフェデラーやジョコビッチ級の選手と考えてもいいかもしれない。
これほどまで、強かったのだが、若干26歳でこの世を去ってしまう。テニスファンとして非常に残念に思う。普通に生きていたならば、日本テニス界に多大なる貢献をしていた人物だと思うからだ。 

それでは、悲劇のヒーロー佐藤次郎について、紹介しよう。

国籍:日本
生年月日:1908年1月5日
出身:群馬県北群馬郡長尾村(現 渋川市)
最終学歴:早稲田大学中退
利き手:右
プレースタイル:オールラウンド
  (粘り強いフットワークと早いタイミングで打つファハンド・ストローク)

【4大大会シングルス最高成績】

全 豪:ベスト4(1932年)

全 仏:ベスト4(1931年、1933年)

全 英:4回戦(1932年、1933年)

【4大大会最高成績・ダブルス】

全 英:準優勝(1933年)

【4大大会最高成績・混合ダブルス】

全 豪:準優勝

【キャリア自己最高ランキング】

シングルス:3位          (出典 ウィキペディア)

日本テニス界の黄金時代?

このころの日本テニス界には、佐藤以外に原田武一、布井良助という選手が存在した。彼らは、特にオーストラリアでの人気が高く、原田は、“ボロトラ原田”、布井は、“スマイラー布井”、佐藤は“ブルドック佐藤”のニックネームで呼ばれていた。

新聞に毎日、三人の似顔絵が掲載されるほど人気者だった。佐藤は、ダブルスでも好成績を収めている。1933年のウインブルドンで布井とペアを組んで準優勝を果たしている。(優勝してほしかったが)

その布井だが、全日本テニス選手権で佐藤を破って優勝したこともある。
原田武一は、全米ランキング3位、世界ランキング7位の実力の持ち主で、特にデビスカップでは、高い勝率を誇っていた。このように3人の世界のトップクラスの選手が存在したこの時代は、日本テニス界の黄金時代だったと言えるだろう。

フレッド・ペリーを破る強さ

フレッド・ペリーは、ラコステと並ぶほど有名なブランド名だ。

どちらもポロシャツが人気だ。ペリーはラコステと同じ、テニス選手だった。

 もともと卓球の選手で、世界的な活躍をしていた。その後、テニスに転向し、テニスでも大成したスーパースターだ。

 今日でも“イギリステニス界の神様または至宝”として称えられている。世界ランキング1位になり、ウインブルドンでは3連覇もしている。

この神様ペリーが全盛期のときに佐藤と対戦したことがあるというのだ。

佐藤VSペリーのスコアは【1-6、7-5、6-4、6-2】だった。
フルセットの試合の末、神様ペリーを打ち破った佐藤は、世界に、その名を轟かせた。

当時エコー・ド・パリ紙に『佐藤対ペリーの大試合は二つの性格、二つの文明の対戦であった。東洋が俊敏な理知と強烈な意思の力によって西洋を打ち破ったのである。』 と記されていた。

この記事から西洋至上主義のテニス界に東洋人が挑み、勝利し、大きな衝撃を与えたことがよくわかる。

デビスカップ選手派遣基金

当時、庭球協会は、資金難で苦しんでいた。そこで、目をつけたのが、めきめきと頭角を現してきた佐藤である。

庭球協会は、国際試合を日の出の勢いで勝ち上がる佐藤を広告塔に据え、資金を得ようとした。資金を集めるために、個人戦の成績より広告効果があった団体戦、すなわちデビスカップの成績を優先させた。協会はデビスカップで日本が上位となり、国威を世界に示すという目的もあった。そして、協会は佐藤を主将に据え、デビスカップ団体戦メンバーを決定した。しかし、佐藤の性格上、団体戦では本来の力を発揮することができなかった。

その上、協会員は、海外転戦後、帰国した佐藤を待ち構え、数々のエキシビジョンマッチやイベントに参加させた。佐藤は、帰国する度に、このようなことを強いられ、相当なストレスを感じていたようだ。

 このことは、今でいう「パワハラ」「時間外超過勤務」である。そして、それが当たり前のブラック企業的な発想だ。このようなひどい扱仕打ちを受け、佐藤は疲弊していったのだろう。これが事実ならば、佐藤次郎は今でいう「過労自殺」である。イギリスの至宝はペリーだが、佐藤はまぎれもなく日本テニス界の宝だった。それに気づかない愚かな人がなんと多かったことか。

神経性胃炎

佐藤は、人一倍責任感が強かった。個人でエントリーできるシングルやダブルスでは、本来の伸び伸びとしたプレーで勝利し、輝かしい成績を残している。しかし、団体戦の結果は芳しくなかった。特に国の威信をかけたデビスカップでは、毎回、神経性胃炎のため本来の力が出せず、よく敗けている。責任感の強い佐藤は、国の名誉や威信がかかった団体戦では、強いストレスが原因で胃炎になり、体力を消耗し思うように活躍できなかった。責任感が人一倍強く、真面目な性格だからかもしれない。

筆者の息子も高校・大学とテニス部に所属していた。大学4年生のとき、キャプテン(主将)となり、十二指腸潰瘍を患った。そして、全国王座(全国大会)がかかった地方大会では、左目の視野3分の1が欠けた。おまけにファハンド・ストロークにイップス症状が出て、大事な団体戦の試合で敗けている。個人でエントリーした試合では、伸び伸びとプレーできていたのだが、主将となりメンバーを率いて大学の名誉をかけた団体戦では、まるで、病人のようなプレーで見ていられなかった。しかし、他のメンバーの頑張りのおかげで、全国大会にはなんとか駒を進めることができた。それが終わった後も、練習のためにテニスコートに立つ度に、原因不明の動悸に襲われていたらしい。(現在はない)軽いPTSD(心的外傷ストレス障害)になっていたのだろう。

息子の一つ前の主将は、決戦の前日に急性胃腸炎になり、救急搬送され40度近い熱が出た。二つ前の主将は、全身にじんましんが出て救急車で運ばれた、翌日じんましんが引かぬまま試合をした。一つ後の主将は、何もなかったと思いきや、全国大会出場を決めた瞬間、ぶっ倒れて救急搬送された。息子の代ときは中・四国大会16連覇中だった。現在17連覇中である。来年の主将も18連覇目を自分の代で止めてはならないというプレッシャーで体の不調が起こるのかもしれない。

大学の名誉と全国大会出場を賭けた試合でさえ、選手は苦しめられる。(特に、中心選手)国の威信をかけたデビスカップではなおさらだろう。このようなプレッシャーは、当事者しかわからないものだ。他人には到底理解しがたい大きな魔物が心と体を蝕んでいく。


佐藤は、デビスカップで敗ければ、日本の国の威信を傷つけてしまうという気持ちがあった。その証拠に、遺書に「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分かりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上のことは出来ません。生前お世話様になった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されんことを請う。では、さよなら」と綴っている。

今では、当時の国威高揚主義など理解しがたいが、80年前は”お国のために”という使命感がスポーツ選手にのしかかっていたようだ。
時代は少し異なるが、1968年にマラソンランナーの“円谷幸吉”もオリンピックで金メダルがとれず、それを苦にして自殺(享年27歳)している。(銅メダルでも十分だと思うが)昔は、スポーツを取り巻く環境や雰囲気に“国の威信をかける”というのがあったのだろう。世界レベルの選手ほど、その大きなプレッシャーと戦っていたに違いない。本来、精神の鍛練や体力向上をして健康な心身を得ることがスポーツの目的である。それが、心と体を蝕み、自ら死を選ばせるということがないように、スポーツかかわる者やそれを応援する者たちが意識して選手を支えていくべきだと思う。

黄金時代の終焉

佐藤は

『ラケットを握り、庭球をはじめしより以来、庭球は一つの戦争であると考えておりました。
庭球場は一つの戦場でもあります。ラケットは銃であり、ボールは弾丸であります。庭球とは人を生かす戦争なり。』

という言葉を残している。

この言葉のように佐藤のテニスにかける情熱と姿勢は凄まじいものがあった。だからこそ、強かったのだ。その反面、テニスに対する異常なまでの情熱が自らの命を絶つことにつながったのではないだろうか。

佐藤が亡くなった後、盟友の布井良助も太平洋戦争で戦死してしまう。その後、日本テニス界は、松岡、錦織の等の選手が出てくるまで、長い間低迷することになる。 佐藤が自殺しなければ、彼らの出現まで待たなくても、第2、第3の黄金時代が来ていたのではないかと思う。

不可解な自殺

佐藤は、1934年にデビスカップの日本選手の主将として、ヨーロッパ遠征に出かける。その途中に、マラッカ海峡で海に飛び込み命を絶った。不可解なのは、遠征前に“岡田早苗”という女性と婚約していることだ。岡田早苗は日本女子テニスのナンバー2の存在だった。テニス界の花とも言われ、美しい容姿の持ち主だったようだ。そのような女性と婚約し、テニス技術もメンタルも向上し、華やかな人生を歩むかと思われたやさきの自殺だ。結婚という幸せを後数日で手に入れる寸前に死を選ぶとは到底理解できない。

最後に

筆者が佐藤について文章を書くことになったのは、次のようなエピソードがきっかけだ。

筆者の息子の友人に佐藤次郎(佐藤と同じ群馬県出身)を知っているかと尋ねたことがある。もちろん同郷の佐藤次郎を知っていると思っていたのだが、彼は全く知らなかった。息子の友人は全国大会出場常連の高校のテニス部キャプテンを経験し、大学でもキャプテンを務めた人物である。群馬県出身でテニスを十数年もやっている若者でさえ知らないことに驚いた。そして、一般のテニスファンも佐藤のことをよく知らないのだろうと思った。

このような経緯から、多くの日本人に、佐藤次郎のことを知ってもらいたいという強い思いでこの文章を書いたのだ。

筆者は一人のテニスファンとして、佐藤次郎の死に対し畏敬の念を抱くとともに、人生を豊かにするためのテニス競技を応援していきたい。そして、日本テニス界の宝であり、今後も世界のトップを走り続けるであろう錦織・大阪、両選手を温かい目で見守っていきたいと切に思う。


コメント 6 件

>庭球場は一つの戦場でもあります。ラケットは銃であり、ボールは弾丸であります。庭球とは人を生かす戦争なり。
北朝鮮感がハンパない。。
昔はスポーツの世界はもっとブラックだったんだろうな

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面白い!佐藤次郎選手は、錦織選手が日本新記録を更新するたびに、名前が出てきますよね。
最後は自殺だったのか。。いろいろ知れて勉強になりました。

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80年前にそんな選手がいたとは知らなんだ。ブルドッグ佐藤・・・。でもフレッド・ペリーは知ってるからそれに勝ったことがあるというのは驚きだ。しかも若干26歳で他界しているだなんてなんていう悲劇のヒーロー。でもどうやらこの頃は日本テニス界の黄金時代で多くの強い日本人選手がいたのも初めて知った。大阪なおみはある意味チートだからなぁ。

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まいまいさん、たくみさん、下柳さん、hiroさん、たくさんのコメントありがとうございます。
結構時間がかかった文章なので、コメント頂いただけでうれしいです。

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強い人だからこそ受ける、プレッシャーの強さを感じます。応援される要素は、強くなるということだけじゃないんだな、と思わされますね。

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